【シャープ横断♪バトンリレー】第28走者◆「ドローン隊」小隊長の林です!
みなさん、こんにちは!
渡邉さんからバトンを受け継いだ、シャープディスプレイテクノロジー株式会社 生産事業部の林です。
これまでのバトンの諸先輩方からは、お仕事での苦労話や嬉しかった話などの楽しいお話を聞かせて頂いていますが、私は仕事の話は適当に切り上げ、普段(仕事以外で)特に取り組んでいることについてお話ししたいと思っていますので、是非、最後まで読んで頂けると嬉しいです!
とは言え、まずは簡単にシャープでの経歴を。
1991年3月に理工系の専門学校を卒業した私は当時の「SSS」(シャープシステムサービス株式会社)に入社致しました。主にシャープの事務関連機器の設置や修理等を行うサービス部門です。
1991年と言えばバブル景気の崩壊寸前の時期ですが、私が入社した頃は比較的簡単に就職先が決まりました。自分の名前が漢字で書ければ就職できた時代です(笑)←ひらがなでしか書けないちびっ子はちょっと無理だったかも・・(笑)
因みに、私の妻は同い年ですが4年生の大学に通っていたので、バブル崩壊直後で就職活動ではかなり苦労したらしく、「アンタはお気軽に就職できて、ホンマにええ時代やったな!」と、今でも半分切れ気味にぼやいています。そんなん僕に言われてもねぇ・・
その後、組織変更や社名変更等で所属部門名は転々としましたが、仕事の内容としては、OA機器(FAX、ワープロ、電子手帳、等々)の修理をしていました。修理業務の中では、大切にお使いいただいたシャープ製品が故障したことで苦情を頂くことも多々ありましたが、反面、修理が済んで、またご使用頂けるようになると「シャープさん、ありがとう!」と嬉しいお言葉をかけていただくこともあり、“ありがとう”という言葉の魔力にハマったのもこの頃だったと記憶しています。
また、ワープロの修理を担当していた頃は、年賀状シーズンになると個人のお客様からのワープロの修理依頼が激増するのですが、そんな時に限って修理交換用の液晶パネルの部品在庫が隘路(入荷が未定の状態)になるんです。この時ばかりは同じシャープの仲間でありながら、液晶パネルの製造部門に対して「何仕事サボってるねん!!」と文句を言っていた事を覚えています。(まさか、私自身が将来、その部門に異動になるとは・・・)
そんなこんなで、シャープのサービス部門でお客様から「ありがとう」のお言葉を頂けるよう奮闘(?)していたある日、当時の上長から呼び出され、「液晶工場に異動になるから」と告げられたのが2000年でした。
当時の最先端の液晶パネル工場である多気第二工場の生産要員として多くの人員が必要になり、各地から人が集められた中の一人でした。
配属された多気工場では、生産管理に関わる帳票類を自動集計する仕組み作りに携わっていました。6年ほどが経過した頃に再度、大きな所属異動を命じられました。
次は何と経営企画部門?!
「理工系の学校出身の私が経営企画部門で何ができるんだろう??」と心配しかありませんでしたが、いざ、業務を始めてみると・・・。
会社の経営方針を立案、社員の皆さんに正しく理解してもらい、社員全員が同じベクトルで業務を遂行できるよう、資料の作成や説明会の運営などを担当しました。やってみると意外と面白い!それなりに失敗もしましたが、部門の上司や先輩にフォローしていただきながらも、業界の動向を調べたり、同業他社の状況を調べたりと自分の専門分野ではない作業をこなすのは楽しいものでした。また業務の一環として、自社の製品(=液晶パネル)をもっと世の中に使っていただくにはどうすれば良いか?との案を考えることもあり、同僚と「自動車のバックミラーが液晶表示になったら面白いやん!」などと液晶パネルを活用できる製品のアイデアを出し合う打ち合わせ(←ほぼ雑談??)も楽しい時間でした。(現在では実際にそのようなバックミラーを採用している車種はたくさんありますが、この当時は笑い話にしかならないような馬鹿げたことを真剣に考えていましたw)
経営企画部門を4年ほど経験し、次は別部門に配属され、ここでは主に、今後取引を行うこととなる製造装置メーカー様(総勢100社以上)との契約関連の折衝業務を行うことになりました。
こちらでも私の専門分野である理工系の知識はあまり関係なく、「敢えて分かりにくいように書いてるんちゃうか??」と言いたくなるような法的文書案の内容を法務部門のアドバイスをいただきながら吟味し、当社に不利にならないように相手様と折衝を行う業務を行っていました。
その後、無事に工場が完成し生産を始めたのですが、その時にその工場で初めて製造された液晶パネルが使われたスマートフォンを、自分たちの仕事の成果の記念として、(世間的にも話題の新製品だったので)なかなか繋がらない新製品予約ページに(仕事をサボって…ぃゃ…適宜、休憩を頂いて)何度もアクセスし続けたことを覚えています。
その後、無事に稼働を始めた工場で検査結果等を自動集計する情報系システムを開発する業務に従事し、数年後には堺に作られたOLEDパネル工場に異動、同じように情報系システムの開発や、製品の検査画像をAI(人工知能)が自動的に解析するAI解析機能を開発するなどして6年を過ごしました。2024年春には亀山工場に戻り、現在はこれまでの液晶パネル工場でのシステム開発の経験を活かし、既存の液晶工場の品質管理を効率化できるシステムの開発を目指しています。
と、ここまで、簡単にシャープでの経歴のご紹介をと思って書いてみましたが、全然、「簡単に」では無いですね(笑)
今回、このコラムを書く為、イントラネットの「従業員情報照会」の異動歴のページで、自分のこれまでの所属部門を見返してみたのですが、やはり入社以来30年以上を過ごしてきた会社ですので、それぞれの部門で経験した嬉しかった事や失敗した事などが思い出されて、とても懐かしく思いました。
で、ここからが本題です!
シャープグループ内でこんな30年を過ごしてきた私ですが、プライベートでは2つの趣味があります。うち1つはバイクで各地(近畿、四国、中国、九州)をツーリングすること。
今回はもう1つの趣味である「災害支援活動」(以下、支援活動)のお話をさせて頂きたいと思います。
私が支援活動に興味を持ったのは、1995年1月に発生した「阪神・淡路大震災」での経験からでした。
発生当時の私は大阪で勤務していたのですが、1991年にSSSに入社し最初に配属された勤務地が神戸(東灘区)で、1992年10月まで神戸にいました。
発災当日は大阪でも相当揺れ、その日の朝のTVのニュースで流れた映像は信じられないものでした。
その週の週末、発災当時も神戸で勤務していた同期の安否が心配だったので神戸に向かいましたが、同期とは会えず、同期の部屋に私の連絡先を書いたメモを残しておきました。(その後、数日経ってようやくその同期から連絡があり無事であることは確認できました。)
その時、(発災から6日経った)神戸市内の様子を見て回った時、一番記憶に残ったのが、被災された住民の方々と支援物資を配ったりされている方々との会話に笑顔があったことです。この光景を見た時に「こんな悲惨な状況でも被災者さんを笑顔にできる支援者さん」がとても素敵だなと感じ、自分もこんな人間になれたらなあと感じていました。
その後は、プライベートでは結婚し二人の子供にも恵まれて、仕事40%、プライベート60%で日々を過ごしていたのですが、2011年に東北地方で大災害が発災してしまいました。
この時、最新の免振構造で建設された亀山工場で勤務していたのですが、それでも数十秒間は建物が揺れていたのを今でも覚えています。その後、たまたま通りかかった休憩室のテレビに映し出されている映像(仙台空港に駐機中の飛行機が津波に流されていく光景)を目の当たりにし、「これは何かの映画でもやっているのか??」と理解できない状況でした。
その後、日数が経過するに従い被災地の状況が徐々に明確になっていき、「何か自分にもできることは無いのか?」と福島に今すぐ飛んで行きたい気持ちが大きくなっていったのですが、何をどうすれば現地で活動が行えるのか?交通網が遮断されている現地にどうやって向かうのか?自分が現地に行って役に立てることがあるのか?等の疑問(と言うよりも不安と言う方が正しい?)ばかりで何も行動できずにいました。
その後は仕事が大変忙しくなり(土曜日も出勤が必要なほど)、東北に飛んでいく時間もお金も無い状況でほぼ諦めかけていた頃、労働組合の東北ボランティアツアーがあることを知り、2015年5月に行われたツアーに初参加させて頂きました。
初参加したボランティアツアーの活動内容は被災現場視察と支援作業が主で、作業内容は住人が避難されており無人となっている民家裏山の竹林の伐採作業でしたが、その時の正直な感想は、「なんか“やった感”が無いなぁ・・・」というものでした。
その後は毎年、ボランティアツアーには参加し、計5回の参加をしたのですが、その4回目となる2018年の回で作業後の雑談の場で、私が「毎回思うんですけど、せっかく福島まで来ても作業内容がこれじゃ、なんか物足りないんですよね~」とぼやいていました。と言うのも、この様なボランティアツアーでは、作業当日に現地のボランティアセンターに行き、作業者の人数と作業者の経験値に見合った作業依頼の割り当てをしてもらう必要がある為、その待ち時間がどうしても発生します。また、作業後も後片付けや作業報告、その日の宿泊施設までの移動時間を考慮すると、現地で実際に作業に使える時間は4~5時間しかありません。そんな中、現場で作業指導をしていただいた方(後に私も参画することになる災害ボランティア団体のメンバー)から「それならもっと思いっきり作業できる方法を教えてあげるよ」とお誘いを受けたのが、その後、私も参画することになった愛知県春日市に事務所を構える災害ボランティア団体「愛・知・人」(あいちじん)でした。
紹介してもらった団体代表の赤池氏のFacebookアカウントにメッセージを送り、晴れて団体メンバーとなりました。
この団体代表の赤池氏ですが、写真で見るとどうみても不良グループのリーダーのような風貌ですが、中身は本当に優しい気持ちをもったええ奴なんですよ(笑)
そんな代表の下、日本全国から集まった有志で構成される「愛・知・人」に私も参画し、まず最初に活動したのが2018年に発生した「大阪北部地震」での被災現場でした。大阪府吹田市をメインに高槻市や茨木市にも向かいました。(高槻市での現場では、三階建ての個人宅の屋根に15メートルの三連ハシゴに登っている最中に、その横を通っている高架線路をドクターイエローが走り過ぎる光景に遭遇しましたが、片手に荷物を持ったままで地上15メートルのハシゴの上では、ポケットからカメラを取り出して“記念撮影♪”とはなりませんでした・・・ざんねんっ!)
こんなにも色々な地域に向かうのは、それぞれの地域で先に活動されているボランティア団体から応援要請を受けることがあるためです。日本全国にあるボランティア団体は、それぞれの“横の繋がり”を大切にしているので、各地で人手が足りなかったり、自団体では対応不可能な特殊な案件(「重機が必要」とか「この作業には国家資格保持者が必要」など)は他団体に協力を求めることもあります。(作業で使用する資機材の貸し借りなども)。
その後、広島県坂町(2018年)や大阪府岸和田市(2018年)、千葉県木更津市(2019年)、最近では石川県珠洲市(2023年6月)、静岡県沼津市(2023年7月)、京都府綾部市(2023年9月)と様々な地域に出かけて、被災された方々が少しでも早く元の生活ができるように微力ながらお手伝いをさせて頂いています。
坂町(広島県)にはその後もバイクでの瀬戸内ツーリングも兼ねて、毎年1回くらいは慰霊碑に手を合わせにお邪魔させて頂いていますが、ある年、慰霊碑のある公園で友人(←ツーリングのついでに連れてきた)とだべっていると、近所のお母さんが「お兄ちゃん、愛知人の人やな、お帰り!」と声をかけて下さったのがとても嬉しかったことを覚えています。
このバトンをくれた渡邉さんが言っている「ドローン隊隊長」の肩書ですが、「愛・知・人」ではその役割ごとに小隊を作っており、そのひとつに「ドローン隊」があり、その名の通りドローンを使った災害支援活動を行っていて、私はその小隊長をしています。
活動内容は主に台風や地震で被害を受けた屋根の状況をドローンで撮影し、その映像を作業班に提供することで、作業者が実際に屋根に登る前に屋根の状況を共有し、安全確保の方法(どんな風に命綱を張るか?等)と作業内容の確認(どの辺りの瓦の被害がひどいか?等)
を行います。また、被害の状況を映像に記録することで、災害現場で横行する詐欺被害の防止(災害現場では、高齢者のお宅を狙い実際の被害状況以上の被害であることを装い、高額な修理代金を請求する詐欺が横行します。)に役立てたり、市町村の罹災証明を申請する際の現状写真として活用して頂く場合もあります。
そんなドローン隊の起源は2018年に発災した台風21号被害です。この台風については、大型船舶が強風に流されて空港連絡橋に衝突したニュースを覚えている方も多いのではないでしょうか?
この時、岸和田市でも多数の屋根に被害が発生し、我々のチームも岸和田市の復興のお手伝いに入ったのですが、その岸和田の地元で模型店を経営されている男性が自身のドローン操縦の特技を活かし、屋根の被害状況を空撮した写真を我々に提供していただき、それが我々の活動の大きな武器になったことから、その男性との交流が生まれました。そして「この武器をもっともっと災害支援に活用して欲しい」との男性の強い要望から、その方から我々が操縦技術を学び、13名のドローンパイロットを誕生させました。
実はその操縦技術を伝授してくださった我々の“師匠”は、その世界でも有名な方で、皆さんが普段テレビドラマや映画などで目にされている空撮映像の中には、その“師匠”が撮影されているものも沢山あります!また、関西で有名なバラエティー番組の「探偵ナイトスクープ」にも探偵の手助け役として出演されたこともあります(手助け内容はあまりにもばかばかしいので、ここでは敢えて伏せておきます。私はその放送を見て、「師匠、何やってまんねん・・・」とぼやいてしまいました・・・(笑))
先に書いたとおり、私はその小隊の隊長をやっておりますが、その任命された理由は「ドローンの操縦技術が優れている!」とか「小隊長としてメンバーからの人望が厚い!」とか誇れるものではなく、初回の勉強会の席でたまたま団体代表の赤池氏の隣に座っていて、赤池氏から「林っさん、隊長やって!」と言われ、「はいよ!」と答えたからです(笑)
そうやって誕生したドローン隊ですが、誕生の翌年の2019年の千葉県木更津市で実践デビュー致しました。
被害に遭われボランティアセンターに援助要請が入ったお宅のリストを順に、ドローンで屋根被害の状況を空撮し、それを住人さんに見て頂き「今日すぐは無理かも知れないけど、必ずブルーシートを張りに来るので待っていてください!」と声かけをして回りました。
航空法で管理されているドローンは飛行禁止区域(空港の近くなど)に指定されている場所は飛行させてはいけないルールになっており、ドローン自身も自らの位置を認識し、飛行禁止区域内だと認識すると、いくら操作しても離陸しないようになっております。
木更津市は市内に自衛隊の駐屯地があり飛行禁止区域に指定されている区域もあり、ドローンが飛ばせない時がありましたが、その度に自衛隊に電話をかけ、事情を説明してドローンを飛行させる許可を特別に得て飛行させたことがありました。そんな時、電話対応して頂いた自衛隊の方から「木更津の為に献身的な活動をありがとうございます!」と激励の言葉まで頂き、あの時は本当に感動しました。
そんなこんなで災害が発生してしまうと、現地に飛んでいき、少しでも被災された方々のお役に立ちたいという熱い想いを持った変人たちの集まりの我がチームですが、掲げているコンセプトが2つあります。
ひとつは「できるときに、できる人が、できることを」
そしてもうひとつは「小さな気持ちを伝え・広げ・届ける」です。
渡邉さんも言っていましたが、
ボランティアって、そんな身構える必要は無くって、誰でも何かできることが必ずあります。
高いところや狭いところが苦手な人は、被災された住人さんの話し相手をしてあげてください。住人さん達は自分たちが経験した怖い思いを誰かが聞いてくれるだけでも、いくらかは元気になれるんです!
もし人と話すのが苦手って人は、ストップウォッチを持って時間がきたら作業中のメンバーたちに「休憩しなさい!」と叱ってやってください。作業してるメンバーってついつい時間を忘れて作業に没頭してしまって熱中症になってしまう危険があるんです。(真夏の屋根の上は地上では想像できない暑さになります)
料理を作ることが好き!って方は、ベース(我々メンバーが現地で寝泊まりしている場所)に来て、暑い中、寒い中、被災された方々の為に頑張ってくれているメンバーに温かい食事を作ってやってください。一日作業した後、コンビニ弁当ではない温かいお味噌汁があるだけでもメンバーはめっちゃ喜びます!
ね、そこのアナタにもできることがあるはず!
少しでも興味をもって頂いた方は遠慮なく林(S113460)までご連絡ください!!
「ボランティアには興味あるんだけど、何から始めたらいいか分からなくて・・・」って相談してもらうだけでも、代表の赤池氏もその他のメンバーも涙を流して喜びます!!
次のバトンは、アイプロ001で活躍されている
Next Innovation I-001プロジェクトチーム
藤井覚さん
にバトンをお渡ししたいと思います。宜しくお願いします!
(林晃志/シャープディスプレイテクノロジー株式会社 生産事業部)
≪シャープ横断♪バトンリレー≫とは…?
みなさんの人脈を駆使しバトンのようにコラムを繋いでいくという、太古の昔からある数珠つなぎ企画!第28走者はシャープディスプレイテクノロジー株式会社 生産事業部の林さんでした。第29走者は、林さんからバトンを託された藤井さんです。お楽しみに♪